« 料理は理を料るもの | トップページ | 「信長の棺」の棺 »

2006年11月 5日 (日)

ファイナルファンタジーであるということ

 DS版FFⅢをクリアした。こんなに短いものだったかという呆気ない気がしなくもなかった。
 しかし、思い起こせば、久しぶりFFらしいFFをやった気がする。

 FFがFFらしくなくなったのはいつのことだっただろうか。クリスタルを廃したⅥだっただろうか、PSに移ったⅦだっただろうか、それともⅧ、原点回帰を歌ったはずのⅨ…。少なくともクリスタルがクリスタルでなくなっていたⅨではファイナルファンタジーではなくなっていたというのが、個人的な見解である。
 FFシリーズの象徴ともいえるクリスタルとは一体なんだったのだろうか?
 勝手な推測だが、クリスタルはゲームの中の存在ではなく製作者の中にあったモノではないだろうか。
 単刀直入に言ってしまえば、それはドラクエこと、ドラゴンクエストである。

 FFが「ドラクエのようなゲームを作りたい」という想いから作られたというのは有名な話である。
 つまり、FF世界の根幹を成すクリスタルという存在は、目標として設定されたドラクエの象徴であってもおかしくない話ではないだろうか。その証拠になるのかは分からないが、FFⅢやFFⅤではクリスタルがジョブチェンジをするために必要な存在として描かれていた。転職システムはドラクエのものという先入観がそうさしていたのではないだろうか。

 FFがクリスタルを捨てたとき、それはFFがドラクエと肩を並べるシリーズとして世間に認識された時期ではないだろうか。おそらく同時期に「ファイファン」と呼ばれていた略称が「エフエフ」で統一されている。
 しかし、それは同時にそれまでFFという世界を支えていたモノを失うことでもあった。
 クリスタルを廃して以降のFFの変遷は説明するまでもないだろう。ファンタジーからSF的な世界へと進化し、ゲームよりも映画的な演出を追及し、果ては本当に映画を作るまでになってしまった。
 PSでFFがⅦ、Ⅷを出している頃、SFCで出したⅥを最後にドラクエは沈黙したままであった。
 PSという場所にもはやFFが世界の根幹とするべきドラクエは存在していなかった。原点回帰を謳い、クリスタルを復活させたはずのⅨの世界にクリスタルの輝きが戻ることは無かったのは当然である。そこに宿るべきクリスタルはⅨ発売の1ヶ月後に世に出たのである。

 FFの魅力は、ドラクエにないものがそこにあったからである。横向きの戦闘画面、4ケタのダメージ、魔法のエフェクト、飛空艇のスピード…etc。
 しかし、何年か前にWS版のFFⅠ、Ⅱのリメイク版をプレイした時、それほどまでに魅力を感じることが無かった。もっとも、FFがⅢからでⅠ、Ⅱを初体験だったからかもしれないが、ドラクエⅠ・Ⅱをプレイした時に感じたような温故知新的な楽しさを感じることはできなかった。
 むしろ、感じたのは失望感である。アイテム等に見られる全く練り込まれていない世界観、物語の偶数系といわれたはずがスターウォーズをなぞったようなだけの物語。
 結局、ドラクエが無ければ、FFは輝くことができないのだろうか? 否、少なくともDS版のFFⅢのクリスタルは輝いていたと思う。

 DS版FFⅢに輝きを取り戻させたものは何だったのだろうか? FFⅢがライバル視するようなドラクエは今のところDSにはない。
 そう、DS版FFⅢはFFでなくなってしまった今のFFのアンチテーゼとして存在することでクリスタルの輝きを取り戻したのである。
 だが、おそらくこれもFFが見せた最後の輝きということになるだろう。最新作であるⅩⅢも“従来通りの”FFである。
 FFにはこれをクリスタルの輝きに変える世界を用意することができない。まして、本来クリスタルの輝きにしていたドラクエも今ではその内側に存在している(むしろFFが取り込まれたというべきか)。

 DS版ファイナルファンタジーⅢ、それは一つの物語の完結なのかもしれない、クリスタルの輝きを受け継ぐ光の戦士が現れない限り…。

|

« 料理は理を料るもの | トップページ | 「信長の棺」の棺 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/190936/12571747

この記事へのトラックバック一覧です: ファイナルファンタジーであるということ:

« 料理は理を料るもの | トップページ | 「信長の棺」の棺 »