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2008年3月27日 (木)

ネイチVSホウキ

 オタクは一般的にコミュニケーション能力が欠落してると言われる。自分の好きなもの興味のないものの話しかできないからだそうだ。

 どうでもいいが、クイズヘキサゴンのアナウンスクイズにて、新聞のラテ欄に書いてあった「にんじゃの池はどこ?」という問題、誰が読んだかしらないが答えが上野(正確には上野公園)であることはすぐに理解できた。
 要するに、「にんじゃ」ということは「忍」の文字が絡んでいること、忍の文字の付く池といったら上野の不忍池ぐらいしか思いつかない。アナウンスクイズを攻略するコツは出題者のおバカさんの思考を読んで、何をどう読み間違えてるかで考えることで、「相手はおバカさんだから何を言ってるのか理解できない」なんて考えてるようでは絶対に解けないのである。

 コミュニケーションというものは本来こういうものなのではないだろうか?
 オタクは自分の興味ある話しかできないからと、コミュニケーション能力が欠落してるということは、逆説的に、自分の興味のない話をする相手とコミュニケーションできない(する気がない)ということの証明なのである。

 プロレスで名人と呼ばれるような選手には「立っているものならホウキとでも試合ができる」と評されることがある。ネイチャーボーイ・リック・フレアーもその1人だ。
 プロレスを八百長だからダメと言う気はさらさらないが、結果の決まってるはずの八百長でも名勝負もあれば、しょっぱい試合も存在する。相手が下手糞でも名人は名勝負とは行かなくても、それなりの試合に仕上げてしまうのである。それが名人というものだ。名人と呼ばれる選手は、100%相手の技を受けるのが上手い選手である。会話で言えば、聞き上手である。

 コミュニケーション能力などという言葉を出すこと自体が、皮肉にもコミュニケーション能力の欠如を示していると言っても過言ではないだろう。

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2008年3月24日 (月)

あえてネットラジオ批判

 まぁ、一部の人間にしか理解できないことだろうけど、自分は一部のラジオでは多少名の知れた存在である。そんな訳で、たまにはラジオの話でもしてみようかと思う。 

 10年前の所謂アニラジ(地上波)と今のアニラジの傾向を比較すると、アニメやゲームのタイアップものが極端に減っている。減ってはいるが、それはあくまで地上波で放送していないだけで、そういうラジオはネットラジオを主戦場としつつあるのが現状のようだ。

 ネットラジオは遠距離受信リスナーとしては雑音無しで聞けるのでありがたいこのだが、果たしてネットラジオが主流になっていいのだろうか? 先程も延べたようにネットラジオは雑音もなく、好きな時間に聞け便利である。が、しかし、本当に便利なだけなのだろうか? 勝手な見解だが、デメリットの方が大きいように思える。もっとも、そのデメリットはリスナーよりも製作側やスポンサー的なデメリットである。
 まず、ネットラジオの場合、地上はラジオに比べて偶然聞いてもらえる可能性が非常に低い。例えば、土日の文化放送のA&Gゾーンの番組なら前後の番組のリスナーが続けて聞いてくれる可能性があるが、垂れ流しで聞く場合を除き、ネットラジオは好きな番組だけ聞くわけだから、偶然は期待できない。
 次に、アニメと連動した番組の場合、未放送地域の人間からしてみれば、まったく未知の世界である。ひょっとしたら、ネタバレが含まれてるかもしれない。そう考えると、例え好きな声優が出ていたとしても、聞くのをためらってしまうものである。
 また、数が多すぎる。放送時間枠なんて関係ないから時間も番組も無制限に増えていってしまう。文化放送のA&Gゾーンの番組ぐらいの数ならすべて聞くこともできるが、ネットラジオすべてとなると…。
 それから、ネットラジオに限らないが、アニラジはその特性上、独自のあいさつや決まりごとが各番組にいくつか存在している。故に、一見さんお断りではないが、何となく途中から入り辛いものがある。まして、ネットラジオのように自分でクリックしなければならないとなると、尚更だ。

 要するに、聞く人間がある程度限られてしまう以上、ネットラジオは宣伝という意味ではそれほど意味がないのではないかということである。
 話題になったネットラジオといえば、「うたわれるものらじお」なんてのがあったが、DVDやゲームの売上げに何か影響があっただろうか? 決して悪いアニメだったとは言わないが、そこまで売れたという話は聞いていない。いくらラジオは面白くてもそれはそれ、これはこれだったのだろう(まぁ、それを言うと普通のラジオにだってどれほどの効果があるのか怪しいものだけど)。

 打開策といっては大げさかもしれないが、いっそA&Gゾーン辺りにネットラジオのCMを流してはどうだろうか? 文化放送のネットラジオ番組のCMを普通に流してるように。例えば、「ハヤテのごとく!」のラジオにしてもネットラジオで放送されていると言うことをハヤテの視聴者の何%が知っているだろうか? EDカードに「ネットラジオ放送中」とアドレスも一緒に載せてれば、アクセス数が1ケタ違っていたかもしれない(あくまで推測)。

 自分が勝手に思い込んでるだけかもしれないが、間口を広げる努力をしないと、ネットラジオは閉塞的になるということは意識はしておくべきだろう。

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2008年3月23日 (日)

お世話になりました

 正月に小学校の同級生の集まりに参加した時に担任だった先生が今年度で退任されるという話を聞いた。
 先日、新聞の教員の異動の欄を読んでいたら確かに退任のところに先生の名前を見つけた。

 小学校4年から6年まで担任だったのだが、先生のお陰だと思えることはたくさんある。少なくとも、都道府県名や場所を理解していないヘキサゴンのおバカ軍団を笑えるのは、先生のお陰だ。小4のときにクラス全員に県庁所在地名も一緒に丸暗記させられているからだ。オタクは桃鉄で地理を覚えると言うが、桃鉄よりも先生に丸暗記させられた方が先だったと思う。
 もう1つ、オタクは信長の野望で歴史を学ぶというのもあるが、先生は小学校の教師の前に高校で社会教師をしていたそうである。今思えば、井沢元彦さん辺りの本が出典であろう金閣寺の三層構造の秘密など、明らかに小学生、そもそも学校で教えるような内容でないものまでたくさん教えてくれた。

 教え子はこんなにダメダメになってしまったが、先生は本当にいい先生だった。
 次に同級生で集まる時は先生も呼ぼうという話になっているようなので、その時に色々とお礼を言っておかなければならない。

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2008年3月22日 (土)

先生が死ねといっても死ぬヤツはいない

 6万7千も「死ね」と書いたバカは自分が何をしてしまったか理解しているのだろうか?
 平野綾ちゃんがどれだけ嫌いかは知らないが、少なくとも何も知らない世間からは同情される立場になっている。絶望先生で言うところの「焼け太り」に近いものだ。

 過去の歴史を振り返っても、このような短絡的な行動は往々にして逆の流れを作り出すものである。
 司馬遼太郎が池田屋事件によってむしろ明治維新が早まったと主張してるように。それにどんな理由で綾ちゃんを嫌ってるのか知らないが、本当にその理由は正しい情報に基づいたものなのか? 私服を肥やしてると断罪して大久保利通暗殺してみたら、私服を肥やすどころか国のために個人名義で借金をしていたというオチがついたこともあった。

 個人的には、2年前のネットラジオの頃から影で応援してる程度のファンではあるが、「その理由で嫌われるなら仕方ない」と思える理由に出くわしたことがない。
 

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2008年3月21日 (金)

FFでは無属性の方が強いことの方が多い

 昨今、ガンダム芸人から始まって××芸人という肩書が増えるようになってきたが、その肩書は必要なものなのか。
 例えば、ガンダム芸人、自称ガンダムに詳しい方々のようだが、ガンダムで仕事はいくらかもらうことができても、本業である笑いをガンダムでとったことがあるだろうか?
 ガンダム芸人と言ってるが、彼らがやってるのは芸ではなく単にガンダム好きが集まって盛り上がってるだけである。まぁ、大学の飲み会芸レベルの芸がもてはやされる時分、この程度でも芸として成立するのだろう。

 しかし、世のガンダム芸人にあえて言いたい、ガンダムに詳しいよりも詳しくない方が笑いが取れる。
 例えば、ガンダムに大して詳しくない人間が「黒い三連戦」と言えば、ヘキサゴンのおバカ軍団の珍解答のように笑いが取れたはずなのである。それを自称ガンダムに詳しいはずの人間が偉そうに言うから反感を買いまくったのだ(アレをボケと言うのなら、ヤケにリアルなボケができるものだ)。

 結局、××芸人という肩書は、それが無いと売り込みのできない連中が自分を分かりやすく売り込む記号として都合がいいのだろう。
 そして、それは芸人に限った話ではない。面接での自己PRをする時の特徴など何パターンかの記号のようなものしか存在しないだろう。悪いが、世間の人間が冷ややかな目で見る萌え要素とどこが違うのだろうか。
 どこかの評論家が動物化と評してたが、それはオタクではなく普通の社会の出来事ではないだろうか?
 

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2008年3月18日 (火)

飛べない翼に意味はあるのでしょうか?

 土6のアニメ主題歌を集めたCDが出るそうだが、土6は果たして音楽的に言うほどの成功を収めていたのだろうか? たしかに、表向きはオリコンチャート上位に何曲もランクインしてヒットしてはいるが、問題はそれ以外の部分である。

 例えば、この枠でデビューした玉置成美や高橋瞳、未だにアニソン歌手のイメージから抜けきれていないというのは気のせいだろうか? 別に、アニソン歌手を見下してるわけじゃないが、彼女たちはアニソン歌手になりたくて歌手になったわけではないだろう。アニメタイアップは起爆剤としては有効だが、体にこびりついた油のようにアニソン歌手というイメージが嫌でも付きまとう。アニソン歌手のイメージを払拭するにはアニソンタイアップでないCDでアニソンタイアップの時以上の売上げなりを出せばよいのだが、普通はできるはずもないだろう。それこそデビュー曲が「ヤマトタケル」というマイナーアニメの主題歌だったGLAYならともかく、ガンダムというメジャーすぎるアニメの主題歌で。

 それに、1クールごとに主題歌を切り替えるシステムは曲数が多くなる利点もあるが、それ以上に1曲1曲が印象に残りづらいというデメリットも存在する。特に、種や種死のようにOP映像を使いまわしてたりしていると、分けが分からなくなってくるはずだ。更に言えば、こういう商売はフォーマットができてしまうと、最初はともかく何年も経てば印象に残りづらくなってしまう。平成ライダーのEDテーマ(というか戦闘時の挿入歌)、555以降、ほとんど記憶にない。

 4月からは日5に移るそうだから、これを機にもう少し方向性を考え直さないと、安定したヒットと引き換えに自社アーティストを潰していくだけになるだろう。
 アニソンは人斬りと同じように、自分も奈落に落ちる覚悟がないと関われない世界なのであるって、そう言えば、「るろ剣」の主題歌も…。

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2008年3月17日 (月)

香炉峰の雪

 枕草子で中宮定子に「香炉峰の雪はどのようなものか?」と聞かれた清少納言が、御簾を上げさせて中宮に雪を見せるというエピソードがある(そして、紫式部はそうやって知識をひけらかす清少納言が気に喰わなかったとか…)。
 現代のある分野で置き換えた場合、「オレ、どうしても速くなりたいんだよ」という友達に赤いペンキを掛けるようなものである。まぁ、そんなことをしたら元ネタを理解しようがしまいが、別の赤いもので真っ赤に染まることになるかもしれないわけだが。
 後者は極端にしても、こういうやり取りは平安の世から存在してるのである。

 昨今、パロディアニメが増えて何も知らない人間からすれば面白くないのだろうけど、この流れは一体どこから始まったのだろうか? 普通に考えれば、ガイナックスの「トップをねらえ!」や「ふしぎの海のナディア」辺りからかも知れないが、独断と偏見でそのガイナの「新世紀エヴァンゲリオン」以降であるとしたい。

 エヴァが流行った10年前は異常な世の中であった。
 アニメ、マンガ、ゲーム、果ては関係ないはずのテレビ番組を含め、あらゆるところにエヴァの断片が溢れていた。簡単に言えば、綾波レイのようなキャラクターの氾濫、エヴァっぽい用語の雨霰、番組のBGMにエヴァのサントラ…etc。個人的な思い出をいえば、学園祭の演劇で一曲だけエヴァのBGMを使用したところ、流れた瞬間一部でざわついていた。そう、エヴァが分かる人間には分かることだったのだ。

 簡単に言えば、エヴァを誰かに伝えたかった、もっと言えば、自分もエヴァを見たということを伝えたかったと言うのが原因ではないだろうか?
 見てるほうも「この人もエヴァを見てるんだ」という親近感というか一種の連帯感を持つことになる。そして、それはエヴァが分かるもの同士の間でのみ、何とも言えない快感を生み出すことになる。 
 このエヴァの時に送り手と受け手の間で交わされたやりとりが、エヴァとは違うものを使い今に続いているのが現在のパロディ作品なのである。

 そう、パロディとは、送り手と受け手の間の見えない絆なのである。

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2008年3月15日 (土)

「限界突破」があってもどうにもならない

 京アニと言えば、原作モノのアニメ化にかなりの定評がある。しかし、現在放送中の「CLANNAD」は非常に中途半端な形で最終回となりそうである。もっとも、残りのエピソードを2期で放送するという手段が残っているかもしれないが、そうも単純な問題ではないのである。

 「CLANNAD」は「Kanon」や「AIR」などを手がけたKeyのゲームで、エロシーンはないのでエロゲーではないのだが、所謂ギャルゲーと呼ばれるジャンルになる。やりだしたら、キリがないので余りギャルゲーには手を出さないようにしてるが、PS2版のKeyのゲームだけはプレイしている。
 だから、京アニが「Kanon」や「AIR」をアニメで再現というか、上手く昇華させたというのがよく理解できた。

 が、この「CLANNAD」に関しては、ゲームとアニメの越えられない壁を突きつけられているようだった。
 アニメで毎週のように流れてるOPの「メグメル」。ゲームでは渚ルートのある場面でしか流れない。プロローグが終わってOPが流れるだろうなという場面でOPが流れなかった時は何かのバグかと思ったが、そういう仕様だったようだ。その昔、「君が望む永遠」で間にCMも挟まずにOPもEDも無しでゲームの1章にあたる部分を構成したことがあったが、同じような真似をするのはさすがに無理があったのだろう。もっと言えば、前作「AIR」でもボーカル付きの「Farewell song」をEDに使っていたが、ゲームではボーカル付きで流れるのはAIR編のEDであった。

 まぁ、重箱の角をつつくような話でなく、もっと大きな壁の話をすれば、ゲームの「CLANNAD」には「AFTER STORY」というものが存在する。渚ルートの後日談と言えば、エピローグ的なモノを想像するかもしれないが、渚ルートはむしろここからが本番と言った方が正かもしれない内容である(とある事情により途中から渚ルートと呼びたくても呼べなくなるのではなるが…)。アニメではもうこれを放送する尺が残っていない。これが中途半端に終わりそうという理由である。
 で、この「AFTER STORY」、トゥルーED(トゥルーではないEDはアニメでも度々流れた幻想世界の正体が判明するものの、余りにも救いようがなさ過ぎる)を迎えるためには、全キャラのEDを見る必要がある。EDの迎えると、「光」が手に入り、タイトル画面に光が手に入れた数だけ増えていく。アニメでもサブタイトル画面で再現されており、風子、ことみのシナリオを終える度に1つづつ増えていた。
 問題は、ここである。さすがに、「Kanon」「AIR」で全ヒロインのEDまで描きつつ、メインヒロインのルートにまとめることができた京アニでも、風子、ことみまではクリアできても、双子(実は、妹の椋はオマケでEDが用意されたようでトゥルーEDには関係ない)と智代を組み込むことができなかったようだ。まぁ、別に組み込んでもよかったのだろうけど、その場合、主人公は人間として扱われなくなることは確実である。
 ゲームなら、杏のEDを見た後で、OPからやり直せば問題ないが、アニメで最初からやり直すわけにはいかないだろう(先述の「君が望む永遠」は今やってるけど)。

 決して、京アニも「AFTER STORY」のアニメ化を諦めていたわけではないと思う。例の幻想世界もアニメに出したし、OPのタイトル前はトゥルーEDのラストシーンだし、先程も触れた光も再現している。また、さりげなく双子が話していた進路も「AFTER STORY」の伏線になっている。
 期待を込めた推測だが、特別編かOVAで一度リセットして、杏ルートと智代ルートを補完してくれるのではないだろうか。1つにまとめることは無理だったとしても、杏ルートと智代ルートなしでトゥルーEDに行くのは反則のような気がする。というよりも、落ち着いて考えれば、そういう逃げ道を用意しておかないと、アニメでトゥルーEDが再現できない。

 とにかく、これが、ゲームとアニメの越えられない壁の正体である。
 別に越えれなかった京アニを非難するわけではない。むしろ、高い原作の再現度を誇る京アニだからこそブチ当たった壁だと言える。

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2008年3月14日 (金)

泣きました 叫んでません そして、死んでません

 「ARIA」が12巻で完結した。
 いい終わり方だったと思う、っていうか、目から水が自然と溢れてくる。
 人間とは悲しい生き物である、悪口批判なら雨霰のように言葉をつむぎ出せるのに(「テニスの王子様」の話参照)、どうして褒めようとすると言葉が出てこないのだろう?

 勝手に思う「ARIA」の魅力は日常だったと思う。3人娘が送る何気ない日常(猫妖精絡みの話のどこが日常だとかは言わない)、その中にある素敵なもの、特に大事件が起こるわけでもなく、ただ、ネオヴェネチアでの日々が過ぎていく話。しかし、11巻の最後のエピソードでアリスが一人前に昇格してから、少しづつその日常が変わっていくことになる。
 細かい話を書くだけでは脳がないので、簡単にまとめると、12巻で描かれてるのは変化していく日常とそれに折り合いを付けていくキャラクターが丁寧に描かれている。例えば、一言も台詞が無いけどアリスを見守ってるアテナとか(他の会社の寮に灯里と藍華がどうやって入れたかを考えると)。

 で、個人的に白眉だと思うのは、アリシアが灯里に昇格試験を先延ばしにしてたことを告白するシーンだと思う。
物語中、完璧超人として描かれていたアリシアも日常が壊れることを恐れていたと分かる場面だ。正しい表現とは思わないが、アリシアが初めて人間らしく見えたような気がする。極端な話、アリシアの代わりに「あらあら」「うふふ」しか言わない人形を置いても話が成立するのではないかというぐらい、アリシアは完璧すぎた。そんなアリシアが見せた弱さと、その後、灯里が自分もそれを乗り越える誓うシーン、泣くなと言う方が無理でしょう…。

 そして、最終話のラストシーンは灯里が初めてAQUAに来た時のアリシアのそれと同じである。また、新しい日常が始まることを期待させるいい終わり方だった。

 気取って言うなら、「大人になる」というのが終わるに当たってのテーマだったのだと思う。
 大人(あの世界では一人前)になることの喜びとそれと同時に生じる悲しみがバランスよく描かれている(ただ、若干、悲しみの方が比重が大きいような…)。
 詳しい事情までは知らないが、巻末のコメントによるとちょうど一年ほど前に作者はアリアという猫を亡くしたそうである。一説には、それがショックで「ARIA」を急に終わらせたなどと言われてるが、作者の中でアリアと過した日々は灯里の台詞に昇華されていると思う。
 失礼な言い方かもしれないが、悲しみを乗り越えた人だからこそ、アリシアと灯里のやり取りは描けたのではないかと思う。

 アニメでは、某軍曹の侵略に見舞われることもあったが、この感動は幅広く共有できるものだと思う。願わくば、もっと、多くの人の目に触れて欲しいものだ(特に、これからのシーズン)。

 最後に、散々書いた最後はこの言葉で締めくくるのが相応しいだろう、恥ずかしいセリフ禁止!

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2008年3月10日 (月)

風刺家電

 それにしても、声優の演技力や実力というのは何をもって測るものなのだろうか?

 こういう言い方をしては声優さんに失礼になるかも知れないが、ある一定の技術があれば、そこから先に演技力などは余り意味を成さない世界だと思う(アニメやゲームに関しては)。
 例えば、未アニメ化作品の脳内キャスティング考える際、演技力や実力でキャスティングする、っていうか、出来る人間はどれだけいるだろうか? 大体の場合が、「あのキャラはああいうタイプだから××さんがいい」と声とキャラの特徴をリンクさせているはずだ。
 極端に言えば、「敵の大ボスは飯塚昭三さん」みたいなモノである。

 つまり、今の声優に必要なのは自分の声に色を着けることなのである。ただ、色が着きすぎて、何をやってもあのキャラの声といわれない程度で。
 だから、ラジオやブログでプライベートを晒すこともある種の売込みであり、重要な声優の活動なのである。だから、某浅野真澄さんを見ればわかるはずだ、ラジオを始める前は割りと可愛い少女役をやっていたのに、ラジオに出るようになって以降は、凶暴性というか攻撃性に特化した少女役を多くこなしてるような気がしてならない。きっと、サガをやってた浅野さんは向こう側の世界の浅野さんだったに違いないと思えるぐらいに。

 何の話をしてたかわからなくなってきたが、声優はアニメ作品においてはあくまで素材の一種であって、完成した作品によって評価されるべき存在なのである。
 だから、声優だけの価値を上げるための声優アワードには存在価値がない(二日連続で同じ結論)。価値を上げるべきは、見てるだけでオタク扱いされてしまうアニメの方ではないのか?
 せめて、マンガかゲーム(美少女ゲーム以外)のところまで地位を引き上げる方が先決ではないだろうか?

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2008年3月 9日 (日)

ケインはWWEにいるけど、権威はそこにない

 第2回声優アワードの授賞式があったそうで、とりあえず受賞された皆様にはおめでとうございましたと言っておきたい所ですが、うれしいですか?
 まぁ、何かをもらうのはうれしいのだろうけど、もらったからといって賞金が出るわけでもない、仕事が増えるわけでもない、ネット上では出来レースだのなんだのと身に覚えのない批判を受ける。今年の受賞者にインタビューを求めるよりも、去年の受賞者に受賞して何か変わったことがあったかを聞いた方がいいのではないだろうか?
 この手の賞に対する批判の大半は、「自分が贔屓の声優でなく他の声優が受賞してるんだ」というものである。
 だから、あらかじめ言っておくが、個人的に贔屓にしてる声優はうりょっちこと白石涼子さんである。理由は、3年ほど前にラジオの生放送のアニソンイントロクイズで負けたから。そういう立場からの声優アワードへの不満は、「女装した男の子賞」を設けなかったことである。この賞なら、うりょっち演じる綾崎ハーマイオニーの独壇場だっただろう(でも、マコちゃんってのもいるからなぁ…)。

 とにかく、批判すべきは声優アワードという賞そのものなのである。
 声優の地位向上を目指して設立した割りに、テレビのニュースでどれだけ取り上げてもらえたか。WBSで最後のほうで少し触れたという以外の情報を確認していない。少なくとも、去年は初めてだった珍しさからかNHKとフジが触れていたはずだが。

 カエサルだったか、「どんな悪法であっても作られた当時は良心から作られていた」と言ってたが、声優アワードが何故悪法になってしまったのか。
 選考方法云々と言うよりも、根本的に設置した各賞が声優の活動に適していないのが最大の原因である。
 アカデミー賞の真似して主演と助演に分けているが、映画とかならギャラの違いで主演と助演に越えれない壁ができているだろうけど、声優にそういう壁が存在するだろうか?
 ギャラなんて現実的な話でないにしても、ヒーローとヒロインが主演だとして、昨今のギャルゲー(エロゲー含む)原作のアニメなどは誰がヒロインなのだろうか? そう言えば、ゲームも選考対象になっていたはずだが、どう扱う気なのだろうか?
 それに、誰も気付かなかったのだろうか? これでは声優でなくキャラクターへの賞である。キャラクターの人気投票をやっておいて、中の人に賞を渡してるだけである。

 それから、歌唱賞やパーソナリティ賞というのは声優だけで選んで意味があるのだろうか?
 どちらも、声優以外にアニメ関係の歌を歌う人やラジオに関わる人もいるというのに、吉本のイケメン番付のような中途半端で微妙な感じが物凄くあるのだが。
 それに、第1回でパーソナリティ賞を受賞した誰かさんが、受賞後もラジオでどれだけの暴言を吐いてきたか。賞を汚したという意味ではどこぞの不良横綱といい勝負である(まぁ、暴言が魅力なのは大いに認めるところだが)。

  「正義なき力と同様に力なき正義も無力」ってのは、ダイの大冒険の出典だったと思うが、世間に対して何の権威も権力もない賞にどれほどの価値があるというのだ? 朝刊がどうなってるかはまだ分からないが、扱いの大きさによっては大義名分を失いかねないことを主催者は自覚すべきだろう。
 そもそも、一般投票を受け付けた時点で権威など欠片もない。その辺の声優誌でやってるただのファン投票と同じである。むしろ、それ以下。

 もし、第3回があるなら、各部門分けの見直し、投票権を業界関係者だけに絞るなど、抜本的な改革をしないと、声優アワードに存在意義はない。

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2008年3月 8日 (土)

Imperator Caesar Augustus Tribunica Potestas

 数日前に書いた「声優の選定」だかに関する話である。
 声優を売り出すとき似よく使われる手段は何かのアニメで主役と主題歌を担当させることである。
 しかし、誰でもいい訳ではない。ある程度の実力や実績がないと売込みがバレて反感ばかり買うことになる。あの某音楽会社はこの点で失敗していたといっても過言ではない。
 枕が大好きな人には悪いが、ビジネスである以上、最初にある程度の実力の見際めをしとかないと、後で痛い目を見るのは自分たちなのである。現に、音楽会社がメインで政策に関わっているのに、音楽を他所の会社に丸投げするようなことになってしまうのである。
 10年前に彼らはそんな未来を予測していたであろうか?

 ところで、今、声優のトップは誰だろうか?
 多分、堀江由衣、田村ゆかり、水樹奈々、平野綾(敬称略)の中の誰かではないかを考えるのではないだろうか? それぞれ、先ほどの、主役と主題歌を担当した声優さんたちである。
 だが、個人的に言わせてもらうなら、堀江由衣以外の選択肢は今のところありえない。何故なら、林原めぐみが作り上げた声優のトップ、あえて言うなら皇帝の地位を継承してるからである。
 江戸幕府を開いた徳川家康が戦国時代の最後の勝利者であり、その実力は疑いようもない。しかし、その後継者たちは勝利者でもなくても、実力がなくても将軍になることができた。家康の地位を継承したからだ。今の日本でも地盤、看板、鞄を引き継げば…。

 では、その林原めぐみが作り上げた皇帝の地位とはどのようなものであるか。
 今回のタイトルはローマ皇帝の称号である。無理矢理訳せば、「インペラトールにして護民官特権の保持者カエサル・アウグストゥス」だそうである(どこかのと違ってある程度は内容と関係あるタイトルを付けてます)。
 ローマ皇帝は、「今から私が皇帝だ」と名乗って完成したわけではない。初代皇帝アウグストゥスが既存の権利や特権を組み合わせることで完成させた存在なのである。
 そして、独断と偏見に基づき、声優界の皇帝としての地位を確立させる条件は以下の通りである。
 1.キングレコード・スターチャイルドからCDを出すこと
 2.声優誌などの人気投票での上位入賞
 3.主役で主題歌を担当すること、また、主役でなくても主題歌を担当すること
 4.1人しゃべりの地上波のラジオ番組を持つこと
 1は征夷大将軍の条件に清和源氏の末裔であることというようなものである。ヤマト、ガンダム、エヴァと社会現象を起こしたアニメと呼ばれるうちのガンダムとエヴァに関わったスタチャである。意識してなくても権威のようなものを自然と感じてしまうはずである。
 2は人気がないと話にならないということである。
 3は意外と難しい。特に後半の主役じゃなくても主題歌を歌うという点である。これに関しては、正直、「何であなたなの?」と未だに思うこともあるが、それでも使われるということは、それなりに評価されたという一種の称号でもあるのだろう。
 4は自分の世界というと大げさになるが、そういうものを発信させる場が必要ということである。地上波に限定したのは、偶然聞いてファンを増やす可能性があるかないかの違いである。ネットラジオを閉鎖的とまでは言わないが、聞く意思のない人間にまで聞かせることはできないはずだ。
 今考えられるのは、この4点である。これらを満たすことによって、声優界の皇帝の座は引き継がれていくのである。だから、失礼な話ではあるが、いくら武道館でライブをするほど評価されていても、それだけで声優界の皇帝になることはできないのである。

 正直なところ、そろそろ次の皇帝が登場してもいい頃だとは思う。
 林原めぐみと堀江由衣の間で禅譲が行われたのはちょうど「ラブひな」の時である。
 だが、時期皇帝となるような人材は今のところ見受けられない。

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2008年3月 7日 (金)

なんとかの話

 記事まで読んだ訳ではないが、週刊大衆に「スザンヌの珍解答はヤラセ」というものがあった。
 まぁ、テレビ番組には必ず台本が存在するわけで、お笑い番組だって台本の進行通りに進んでる場合が多々あるそうだが、本当にアレをヤラセで再現できるとで思っているのだろうか?

 この場合のヤラセというのをどこからどこまでいうのかは知らないが、作られた珍解答を答えてるだけということなのだろうか? だとしたら、その珍解答を考え出した人間はバカどころか天才だろう。
 まさに、バカと天才は紙一重、「龍狼伝」の曹操も「こんな策を実行する者がいたとしたら、余程の大馬鹿者か天下の大軍師よ」みたいなことを言っていた。

 クイズ番組でヤラセだと感じることはよくある。
 純粋なクイズではないが、「さんまのからくりTV」のご長寿早押しクイズ。絶対に先に解答者に答えを教えておかないとできない間違え方がよく見られた。もっとも、あのコーナーはそれを理解した上で、それでも間違ってしまうご長寿を笑うコーナーだったと思う。最近、見ないが準レギュラーだったご長寿の方々はお元気だろうか?
 それから、「世界ふしぎ発見!」。アイドル系のゲストがそれまでの珍解答とは違って1問だけ急に正解を書く場合がある。ゲストで登場したのに、1問も正解できずに帰るのはかわいそうだからというスタッフの配慮ではあるのだろうけど。しかし、ふしぎ発見で散々珍解答を繰り返して元祖おバカキャラとして現在も活躍してる野々村真さんも他のクイズ番組では割と普通の成績だったりするのが面白いところである。というよりも、ふしぎ発見のクエスチョンの難易度が異常に高いのと、知識よりも勘や想像力で解く問題という話なのだが。

 ちなみに、珍解答は一般の人間でもやろうと思えば簡単にできるはずである。
 例えば、試験を受けた時にどうしても答えれない問題があったとする。普通は空欄で試験を終えるだろうが、何でもいいから書かないよりはマシと適当な答えを書くこともある。その適当な答えこそ、正解を知る者が見たら珍解答なのである。
 しかし、最初に珍解答を考えてやれば天才と言っておきながら、誰でも書けると言うと矛盾してるようだが、世の中には、笑える珍解答と笑えない珍解答が存在する。大喜利のネタが全て笑えるわけではないのと同じようなものである。

 ところで、仮にバカキャラを演じるとして重要なことは何か? それは精神力に他ならない。
 めちゃイケの期末試験で絶対的なバカとして君臨し続けた濱口優さんは、小学生がこいつには勝てると思う芸能人で見事1位を取ることになってしまった。
 少なくとも小学生ぐらいだと、キャラでバカを演じていたとしても、それがキャラであることに気付くはずもなく、「こいつは小学校で自分たちが習ってることもできないバカなのだ」と認識するはずである。
 普通の人間がそんな子供たちの自分を見下す視線に耐えれるだろうか? ニアに「人殺し」と言われて初めて自分の仕出かしたことの恐ろしさ気付き、耐え切れず自殺するようなヤワな精神を持った人間にデスノートが使いこなせないように、バカもまた人を選ぶのである。
 久しぶりに松坂とバッテリーを組んだ上地さんが松坂に向かって言った、「お前も大変らしいな」という台詞にすべてが表れている。バカをやるということは、野球でメジャーに挑戦することと同じぐらいの精神力が必要なのだ。
 多分、上地さんは何も考えずに発言したんだろうけど、そこに真実がある。 

 ふと、「めざせ!1番!!」のサビが聞こえてきた気がした。

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2008年3月 6日 (木)

自身の武力が大幅に上がり、さらに知力と移動速度が上昇する。

 やっぱり終わった「テニスの王子様」。
 まぁ、しかしなんだろう? 数ヶ月前からこのマンガ全体に漂っていたもうすぐ終わりですオーラは。

 最初に断っておくが、「テニスの王子様」は最初から通しで読んでるわけではない。本来なら、こんな話をするのは作品に対して失礼かもしれないが、このマンガで最終的に作者が訴えたかったメッセージを(電波で)受け取ったような気がするので、取り上げてみる。

 そもそも、終わりそうだオーラが漂い始めた理由はどこにあったか。
 それは、全国大会決勝戦、特に第3試合以降の駆け足が凄かった。普通のペースなら幸村に時間稼ぎで挑んだ遠山の話で1~2週、記憶喪失のリョーマの記憶を取り戻すためにかつてのライバルたちが協力する話で4週ぐらいかけても良かったはずだ。特に、最終回間近で、跡部辺りは最後の見せ場になったかもしれなかったのに。
 そういうのをすっ飛ばして、リョーマの試合に持ち込もうという展開の速さが尋常ではなかった。さらに、肝心のリョーマVS幸村も天衣無縫の極みという名の超サイヤ人化をした途端、手も足も出ずに敗北という最終戦とは思えない一方的な展開。てっきり、病気の再発でできた一瞬の隙を突かれて負けると思ってただけにあっけないにもほどがある。しかも、そのままエピローグに突入して終了。
 とても、9年に渡る連載の最終回とは思えない最終回だったと思う。

 ところで、作者の言いたかったメッセージの話であるが、それは「天衣無縫の極み」の中に存在する。
 早い話が、「楽しければいいじゃん」と、開き直ったヤツが何よりも強いという理論なのである。多分、生きようとする意思や志々雄様よりも強いのではないかと思う。
 ウチの弟は「この作者は絶対にテニスをやったことがない」と断言していた。「サーブを受ける時の立ち位置がネットの手前なのは絶対にありえない」などが理由だそうだ。

 ここから完全な電波であるが、作者は最初に軽い気持ちでテニスをテーマにしたのではないか。さっきのウチの弟は、テニスは他のスポーツと比べればマイナーな競技だから、知名度はあってもルールや選手まで詳しい人間はほとんどいないと言っていた。
 ところが、想像以上にマンガの人気が出てしまい、自分にテニスの知識がないことがテニスに詳しい人間に露呈。ジャンプマンガの定番と言うか、必殺技の応酬でテニスの名を借りたバトルマンガ路線に進むものの、5試合あるうちの2試合は味方を負けさせないといけない展開、次々とライバル校を登場させなければならない関係でキャラの数は膨大になり(気のせいか関東大会と全国大会の面子がほとんど同じような)これ以上はキャラが考えられない袋小路。
 そして、最終的にたどり着いたのが「楽しければいいじゃん」という天衣無縫の極み。
 そう、楽しければいいのだ。テニスじゃなくてもバトルマンガとして楽しければいいのだ。
 人間技や生物として明らかにおかしい肉体の変化があっても楽しければいいのだ。
 神の子と称され、神に最も近い男と同じようなテニスをする相手を瞬殺しても楽しければいいのだ。

 9年という月日をかけて「テニスの王子様」が最終的にたどり着いた答えはそこにあったのだ。

 ただ、このマンガを描いてる作者が楽しそうだという気が起こらないのはなんとも不思議な話である。

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2008年3月 5日 (水)

もう狐にダマされない

 韓流ブームへの対抗意識か知らないが、「24」以降、アメリカドラマの宣伝が活発になってきている。
 今一番人気は「HEROS」でいいのだろうか? しかし、アメリカドラマは「The X-FILES」で懲りた。

 たしかに、最初は面白かった。雑誌の紹介記事を読んだ時、「オレの求めてたドラマだ」と感動して、テレビ朝日で始まった放送を毎週欠かさず見たし、長年故障してたビデオデッキを買い換えた時には、まず、ゴジラを借りてから、Xファイルの第2シーズンをレンタルした。

 が、第3、第4とシーズンを重ねるごとにあることに気付いた、毎度毎度「TO BE CONTINUED」で終わる最終回の多さに。
 調べると、アメリカのドラマは人気があれば続編が作られるらしく、次のシリーズに繋がる終わり方で人気を維持するのが常套手段だそうである。中には、それに失敗し、続くことなく伏線を残したまま未だに続編の作られていないドラマもあるらしいが。

 さらに、どうも行き当たりばったりで作ってるとしか思えない設定のいい加減さ。ある回ではモルダーの妹のミドルネームが違っていたこともあったそうだ。
 そして、シリーズ当初からの伏線、行方不明になったモルダーの妹が実は…、という辺りでどうでも良くなった。
 そのぐらい凄まじいオチだった。

 普通の人間なら、「ここで金返せ」と言いたいところだろうが、惰性でシリーズのフィナーレまで見た後も、Xファイルには金を払い続け、DVDBOXまで集めたのである。
 そして、この1割引の10%ポイント還元で購入したDVDBOXがワゴンセールで半額になっていたのを見たことが、アメリカドラマに手を出さないと心に誓うきっかけとなった。
 単なる逆恨みもいいところである。

 そうは言うものの、たまに見る「CSI」や「コールドケース」は面白いと思う。
 1話完結のドラマであれば、アメリカドラマは楽しめるが、最初に謎や伏線を張り巡らせる類のドラマは最初が面白くてもキレイに終わることはまずない。
 Xファイルだけで手に入れたアメリカドラマの法則である。

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2008年3月 4日 (火)

LOST 8(not 米ドラマ)

 本棚を整理していて気付いた、「ガンスリンガー・ガール」の8巻がない。でも、9巻はある。
 これはどういう状況なのだろうか? 本屋で新刊チェックは週に何度もしてるけど、「ガンスリンガー・ガール」は急に絵柄が変わったので見逃してしまったのか? あるいは、買った読んだのだけど、本棚とは別のところに紛れ込んでしまっているのか?
 まぁ、内容が思い出せない時点で前者の方が濃厚なのだが、万が一ということもある。っていうか、同じマンガを2冊買うなんて愚だけは避けたい。

 っていうか、最近、マンガが多すぎて巻数と表紙と内容が完全に把握できてない。
 小説やDVDでは不思議とそのような事態が発生しないのに、何故かマンガに限っては、最新巻と間違えて前の巻を買ってしまったということはよく聞く。

 多分、昔なら集めるマンガも少なかったから、把握しやすかったし、同じのを何度も読み返すから内容も鮮明に覚えていた。しかし、今は集めるマンガの量も増え(新刊を見かけたら買うようにしてるため、どれだけ集めてるか既に把握できてない)、年齢による記憶力の低下も重なり、昔ほど管理できてない。

 いっそ、蔵書リストでも作った方が良いのだろうか? 蔵書なんて呼べるような大層なものではないと思うが。
 

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2008年3月 3日 (月)

小説版「ハヤテのごとく!」P75の挿絵のごとく!

 最後の劇場版から数年の時を経て「スレイヤーズ」のアニメ4期の製作が決まったそうである。
 個人的なスレイヤーズの思い出といえば、未だに原作を読み終えていないということがある。正確には「覇軍の策動」以降を読まないまま、10年以上の時が経ってしまった。
 というのも、スレイヤーズがアニメ化された頃は高校生、さすがにバイトもしてない身で全巻揃えるには巻数が多すぎた。そこで、スレイヤーズを揃えてた友達から新刊が出るたびに借りて読んでいたのだが、高校卒業とともに貸し借りができなくなり、そこから先を読んでない。
 ただ、風の噂に本編が終了したらしいという話は聞いたのだが。

 「スレイヤーズ」は日本のアニメを語る上で、外せない作品である。
 同時期に「新世紀エヴァンゲリオン」という怪物アニメが存在したせいで陰に隠れがちだが、俗にスタチャ商法と呼ばれるアニメを確立させたのは「スレイヤーズ」の方である。
 まぁ、大雑把に言えば、主演声優に主題歌を歌わせることで相乗効果を狙うのがスタチャ商法の基本である。最近は、若い女性声優を大量投入したもののように使われてる気がしなくもないが。で、「スレイヤーズ」、特に2期のNEXTが放送された時期はエヴァンゲリオンの後で、林原めぐみの人気が不動のものとなった時期で、このスタチャ商法を確立させることに多大な貢献をしたはずである。
 また、ライトノベルを原作にすることで、少年マンガでは難しかった2クール構成の物語が比較的構成しやすかったという利点もあったはずだ。

 しかし、「エヴァンゲリオン」ほど「スレイヤーズ」が研究・分析されてるという話を余り聞いたことがない。
 たしかに、社会に与えた影響や云百億という経済効果のあったエヴァの分析をして、同じようなヒット作品をあわよくば狙おうという気は理解できなくもないが、両方に関わった大月Pが選んだのは、「スレイヤーズ」の方だったのである。現に、会社は違うが「スレイヤーズ」と同じ路線の「涼宮ハルヒの憂鬱」だってアレだけヒットしたではないか。
 もっとも、スタチャ商法もそれだけでは機能しない。某会社が10年ぐらい前にアニメに進出したとき、同じように主演声優に主題歌を歌わせて儲けようとしてたが、見事にこけてしまった。“主演声優”という部分も意外にバカにはできないのである(これだけで誰のことか分かったあなたは偉い)。
 声優の選定の話題は今度の声優アワードの発表の頃にでも取っておきましょう。

 既に何の話か理解できないが、今年はラノベ出身の桜庭一樹さんの直木賞受賞ということもあり、ラノベが一般層に注目されると予想している(まぁ、数年前に仮面ライダーカブトとセンター試験の現代文で「ボクっ娘ブームが来る」と予想して外してるけど)。
 「マンガ原作に枯渇した民放ドラマがラノベに手を出すのも時間の問題かもしれない」と1人で思ってる時期に、ラノベの完成型である「スレイヤーズ」の新作が決まったというのは意義深いことなのである。

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2008年3月 2日 (日)

ジェットアッパーは撃てない

 アニメなどを見ていて、声を聞いただけで誰かを判別する能力を一部では「ダメ絶対音感」という。
 先日、「みなみけ」と同じ作者のアニメだからと何の前知識もなく借りた「今日の5の2」というアニメのメインキャストの声を全て当てた時、改めて自分にこの能力が備わっていることを実感した。
 まぁ、身に付けたいというモノ好きはいないと思うが、一応、身に付ける方法を挙げておくとすれば、声優の声をたくさん聞くことである。これしかない。アニメやラジオで声優の声に触れることで自然と身についているものなのである。
 手に持った箸に重さを感じたときが消力をマスターした証であるように、一般的(?)にかないみかさんとこおろぎさとみさんの区別が出来るようになったらダメ絶対音感が身に付いたと言われている。

 どうでもいいことではあるが、個人的にそのダメ絶対音感の外側にいる声優が2人いる。伊藤静さんと小林沙苗さんである。
 この2人の声はEDのキャスト表を見るまで気付かないことが多い。この人たちが出てるラジオを余り聴いてないからというのがあるのかも知れないが、とにかく、コレという声のイメージが掴みにくい。
 何の説得力もないだろうけど、演技力のある声優は誰かと聞かれたら、この2人の名前を挙げると思う。
 

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