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2008年3月17日 (月)

香炉峰の雪

 枕草子で中宮定子に「香炉峰の雪はどのようなものか?」と聞かれた清少納言が、御簾を上げさせて中宮に雪を見せるというエピソードがある(そして、紫式部はそうやって知識をひけらかす清少納言が気に喰わなかったとか…)。
 現代のある分野で置き換えた場合、「オレ、どうしても速くなりたいんだよ」という友達に赤いペンキを掛けるようなものである。まぁ、そんなことをしたら元ネタを理解しようがしまいが、別の赤いもので真っ赤に染まることになるかもしれないわけだが。
 後者は極端にしても、こういうやり取りは平安の世から存在してるのである。

 昨今、パロディアニメが増えて何も知らない人間からすれば面白くないのだろうけど、この流れは一体どこから始まったのだろうか? 普通に考えれば、ガイナックスの「トップをねらえ!」や「ふしぎの海のナディア」辺りからかも知れないが、独断と偏見でそのガイナの「新世紀エヴァンゲリオン」以降であるとしたい。

 エヴァが流行った10年前は異常な世の中であった。
 アニメ、マンガ、ゲーム、果ては関係ないはずのテレビ番組を含め、あらゆるところにエヴァの断片が溢れていた。簡単に言えば、綾波レイのようなキャラクターの氾濫、エヴァっぽい用語の雨霰、番組のBGMにエヴァのサントラ…etc。個人的な思い出をいえば、学園祭の演劇で一曲だけエヴァのBGMを使用したところ、流れた瞬間一部でざわついていた。そう、エヴァが分かる人間には分かることだったのだ。

 簡単に言えば、エヴァを誰かに伝えたかった、もっと言えば、自分もエヴァを見たということを伝えたかったと言うのが原因ではないだろうか?
 見てるほうも「この人もエヴァを見てるんだ」という親近感というか一種の連帯感を持つことになる。そして、それはエヴァが分かるもの同士の間でのみ、何とも言えない快感を生み出すことになる。 
 このエヴァの時に送り手と受け手の間で交わされたやりとりが、エヴァとは違うものを使い今に続いているのが現在のパロディ作品なのである。

 そう、パロディとは、送り手と受け手の間の見えない絆なのである。

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