2010年9月 3日 (金)

真・エンドレスエイト考1

 以前にも触れた涼宮ハルヒシリーズ最大の問題作エンドレスエイト。
 あれから色々思うところがあって、あの記事で思い違いをしていたことがあったので書いておく。

 記事の最後の方で古泉に関して触れてるあたりである。
 結論から言えば、古泉はミスリードのキョンを騙しているわけではない。しいて言えば、読者に対してミスリードを行っているのである。

 著作権に関わるかもしれないが、多くの人間が「ハルヒは宿題がしたかった」と誤認する根拠となった古泉の解説を抜粋してみよう。

 「涼宮さんは文武とも優秀なかたです。それは幼い頃からそうだったでしょう。ですから彼女は夏休みの宿題などが負担だとはまったく思わなかったのですよ。ましてや、友人とともに分担作業でするものでもなかったのです。涼宮さんはそんなことをするまでもなく、一人で簡単に片付けられる能力があるわけですから」(「涼宮ハルヒの暴走」P83より)

 2度3度読んでみて何か気付くことはないだろうか? そう、これは「涼宮ハルヒにとって、夏休みの宿題がどういうものであるか」を解説したものであって、エンドレスエイト事件を引き起こしたハルヒの夏休みのやり残しが何かを解説しているわけではないのである。ちなみに、次の行は「古泉の解説を聞きながら、」と続くが、解説とだけ書いてあるだけで何の解説かは具体的に書いてない。もし、これが「ハルヒの夏休みの心残りが宿題である」というのであれば「だから、涼宮さんは宿題を友人と分担作業でやりたかったのでしょう」という台詞や「古泉の今回の事件に関する解説を聞きながら」という文章が入ってないとおかしいのである。
 別に作者が不親切ではなく、確信犯的に叙述トリックを仕掛けている。
 実は、作者は別のエピソードで、エンドレスエイトと同じ構図の叙述トリックを仕掛けて丁寧に解説をしているのである。
 それについては次の記事で。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年3月 1日 (月)

エンドレスエイト考

 唐突だが、昨年、物議を醸したアニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」のエンドレスエイト、このまま終わってもいい話なのだろうか? 話としては、無事に9月1日を迎えることができたから、めでたしめでたしなのかもしれないが、本当にその状態で終わっていいものだったのか? もっと言えば、ハルヒが15532回(アニメ換算)も夏休みをやり直してまでやりたかったことが、「みんなで一緒に宿題をする」というもので良かったのか。

 そう、多くの人間が夏休みの宿題こそがエンドレスエイト脱出のカギであり、ハルヒがやり残したことはみんなで宿題をすることだと誤認しているのである。恥ずかしながら、つい最近まで自分もそう考えていた。
 「みんなで宿題」は決して、エンドレスエイトの脱出の答えではないのである。何故なら、アニメでも原作でも8月31日にハルヒがみんなと宿題をやっている描写はないから、原作から引用すると、「ずっと俺の妹と遊んでいた」(涼宮ハルヒの暴走81ページ)としか書いてない。15532回も繰り返してまで待ち望んでいた、みんなと一緒にやる宿題をやっていないのである。
 「みんなで宿題」がエンドレスエイト脱出の鍵ではないとしたら、一体何が本当の鍵だったのか。それは、15532回目の8月31日に答えが隠されている。というよりも、残されている答えは、「キョンの家に行く」という行為そのものだったとしか考えられない。つまり、ハルヒが本当に欲しかったのは、キョンの家に行く口実だったのである。
 エンドレスエイトの真相、それは好きな男の家に遊びに行くのに600年近くもかかった少女の話だったのである…。

 それにしても、何故、多くの人間が宿題が脱出の鍵であると誤認し続けていたか。
 それは、古泉によるミスリードとそれを簡単に信じたキョンの視点で物語が描かれていることに由来する。
 ミステリーなどでは、「信頼できない語り手」というものが存在する。語り手の一人称で物語が語られているにも関わらず、何らかの意図で事実を捻じ曲げるなどして物語を語る語り手のことである。有名なところでは、アガサ・クリスティの「×××××××」が挙げられる(まぁ、一応伏せた方がいいのかな?)。語り手自身が殺人事件の犯人のため、自分に不利になる情報を伏せているのである。
 では、キョンは涼宮ハルヒシリーズにおいて、何を捻じ曲げているのか。それは、女性陣の自分に向けられている好意に気付いていないことである。たしかに、無表情のはずの長門の微妙な変化に気付くなどの鋭い観察眼は持っているかも知れないが、その変化の意味には全く気付いていない(例え、胃が痛くなっても)。
 だから、古泉のミスリードに簡単に引っ掛かり、読者をも巻き込んでしまう。

 古泉が何を思ってそんなミスリードを仕掛けたのかは謎である。この時点でハルヒの好意をキョンに認識させるのが得策でないと判断したのか、単にハルヒの好意に気付かないキョンにいたずらをしただけなのか。ハルヒに告白をしようと冗談を言った時にアニメにすら出なかったキョンの顔を見ている古泉なら、後者の方のような気がしなくもない。

 邪推だが、エンドレスエイトを8回も繰り返した理由の中に、原作者自身が、自分の仕掛けたミスリードから抜け出せない多くの人間に真相に辿り着くキッカケにして欲しかったというのもあったのではないだろうか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月10日 (日)

蛇に翼をつければ神様になる

 「けいおん!」で文化祭のライブシーンがPV調だったのでハルヒのライブシーンの再現を期待していたファンの間では賛否両論だとか。
 まぁ、放送が3週間ぐらい遅れてるこの辺では、さわちゃんが本性を現してないので直接関係ないことにょ。

 というよりも、件のライブシーン。原作にはない。“ない”というか、始まったら次のページで終わってるのが正確な表現だ。そりゃ、基本的に4コマまんがだから、各人の演奏してる絵を描けばそれで終わりである。
 対して、ハルヒのライブシーンは小説なので挿絵はハルヒと長門の演奏場面の1ページのみだがライブシーンにはその挿絵を入れて8ページも割いている。
 つまり、ハルヒと比べてけいおんはライブシーンを必要としていないのである。特にハルヒのライブシーンは演奏で観客を魅了して軽音楽部の人間にも感謝されるほどだったのだから、現実で見ている人間をも唸らせなければ嘘になってしまう。逆に、けいおんでいきなりハルヒのようなライブシーンが挿入されたらどうなるだろうか? 多分、浮く。

 「けいおん!」の魅力はバンド活動ではない。テニスとタイトルに関して、全く別の格闘技を描いたマンガだって世の中には存在するのである。別に何の問題もないだろう。どこぞの南さんの家の三女が言っていたように、過度の期待はしないことだ、これもそういうアニメなのだから。

 三国志の司馬懿は速攻が得意だったにもかかわらず、孔明との決戦においてはそれを捨てて持久戦に持ち込んで勝利することができた。原作を生かすためには、ファンの期待を裏切ってでもライブシーンを描かないという姿勢こそが、原作モノに強いといわれる京アニの強さではないだろうか?
 仮に、ハルヒのライブシーンを再現できるアニメーターがもういないからだとしても、それはそれで怪我の功名というか恐るべき悪運だ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月31日 (土)

虚構と現実の間に…

 今度の「コードギアス 反逆のルルーシュR2」の内容が特別番組に変更されるという。
 実は録り貯めしたままでまだ1話も見ていないという恥ずかしい状況なのだが、噂は色々と入ってくる。低視聴率と今後舞台になる中国への配慮が主な原因と言われている。

 前者に関しては、R2になって夕方に放送時間を移したことが原因だろう。
 たしかに、1期の頃は「夕方(土6)で放送してれば良かったのに」と言われてたかもしれないが、2期になってから夕方に移したのでは遅すぎるというのが理解できなかったのだろうか?
 たしかに、ギアスのファン層と土6アニメのファン層は被るだろう。しかし、それ以外の視聴者に関してはどうだろうか。推測でしかないが、土6を支えていたのはアニメファンよりも偶然見てそのまま見続けてた人間だったのではないだろうか? 果たして、「コードギアス 反逆のルルーシュ“R2”」なんてものを偶然見て、そのまま見続けようという奇特な一般視聴者がいるだろうか? 1期を見てないと確実に置いてけぼりにされるアニメを。

 後者は作品に現実性を持たせるために実際の国家と似たような名前の国を出したのが原因だろう。
 このアニメのプロデューサーは同じ目的でガンダム00に西暦を持ち込んだ人間である。もっとも、それで作品世界に現実性が生まれたかは定かではないが、現実の影響をモロに受けるという弊害は確実に存在するようだ。
 「9割の真実の中に1割の嘘」というのは騙しのテクニックである。ギアスなんて超能力やナイトメアフレームなんてロボットのいる大嘘の世界に真実味を持たせるには他の部分を真実にで塗り固めなければならなかったのかも知れない(ギアスだけで嘘の比率が3割ぐらいのような気がするけど)。
 まぁ、あのプロデューサーが何を訴えたかったのかは理解したくもないが、少なくとも現実世界に訴えたい何かがあるからこそ無駄に現実味を帯びた舞台を用意したのだろう。そして、その結果、現実では訴えれないことを訴えるのに適していたはずの虚構の世界にも及ぶという本末転倒なことになってしまったのである(中国に遠慮したという話が本当なら)。

 まぁ、このプロデューサーがそういう考えに至ったのは、過去の担当作品で自分がイメージした国とスタッフが作品に反映させた国が違っていたという事態が度々あったからではないだろうか?(パ○ス○ナのつもりで発注したらチ○ッ○にされていたとかw) だから、現実の世界と無理矢理結びつけることで発注ミスを減らそうとしてるのだろう。
 そもそも、このプロデューサーはやたらとテーマ等についてしゃべりたがる傾向があるように思える。視聴者に考えて欲しいというよりは、誘導尋問の方が正しいかもしれない。

 果たして、そこに真実は生まれるのだろうか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月25日 (日)

誰もが知ってるウルトラの戦士だけど

 20数年前に「ウルトラ怪獣大全集」という本を買ってもらった(ぶっちゃけ、このブログのタイトルはこの本から失敬してたりする)。
 孔子は易経をバラバラになるまで読み込んだというが、自分もこの本をバラバラになるまで読み込んだというか、本当にバラバラにしてしまった。だから、当時、買ってもらったものは残念ながら処分した。しかし、10年ぐらい前に、偶然本屋で見かけたので記念に1冊手元に置いてはいる(この手の本の恐ろしいところは重版が何十年も繰り返されてることである)。
 で、「ウルトラ怪獣大全集」はウルトラQから80までの怪獣が網羅されていたのだが(最近の怪獣図鑑ではお目にかかれない「ウルトラ兄弟VS怪獣軍団」も)、その中に一際目立つ存在があった。

 「ザ☆ウルトラマン」である。

 それ以来、「ザ☆ウルトラマン」は幻のウルトラマンであった。
 他のウルトラマンと違ってレンタルビデオで貸し出されることもなければ、再放送されることもなかった(子供の頃にどさくさに紛れてさっきの「ウルトラ兄弟VS怪獣軍団」は見たことがあるのに)。
 過去にLDで発売されたらしいが、LD全盛期にLDに手を出せるほど金をもってはいなかった(でも、高校の同級生で「超獣機神ダンクーガ」のLDを集めたというヤツはいたけど)。
 唯一見た映像は、ウルトラマンの主題歌を集めたビデオの「ザ☆ウルトラマン」の部分だけである。

 それから、20数年、ついに手元にやってきた「ザ☆ウルトラマン DVD メモリアルボックス」。
 
 普通だった、とりあえず、DISC1を見たが。
 別に幻の傑作だと心の中で美化してたわけでもないし、ただ1話も見たことがないというだけで特別視してただけだったと思う。
 もう、その特別視をすることはない。「ザ☆ウルトラマン」はアニメのウルトラマンという存在でしかなくなってしまったのだ。

 幻の作品を見た喜びよりも、何かを失った悲しさの方が少し上回ったような気がした…。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年3月15日 (土)

「限界突破」があってもどうにもならない

 京アニと言えば、原作モノのアニメ化にかなりの定評がある。しかし、現在放送中の「CLANNAD」は非常に中途半端な形で最終回となりそうである。もっとも、残りのエピソードを2期で放送するという手段が残っているかもしれないが、そうも単純な問題ではないのである。

 「CLANNAD」は「Kanon」や「AIR」などを手がけたKeyのゲームで、エロシーンはないのでエロゲーではないのだが、所謂ギャルゲーと呼ばれるジャンルになる。やりだしたら、キリがないので余りギャルゲーには手を出さないようにしてるが、PS2版のKeyのゲームだけはプレイしている。
 だから、京アニが「Kanon」や「AIR」をアニメで再現というか、上手く昇華させたというのがよく理解できた。

 が、この「CLANNAD」に関しては、ゲームとアニメの越えられない壁を突きつけられているようだった。
 アニメで毎週のように流れてるOPの「メグメル」。ゲームでは渚ルートのある場面でしか流れない。プロローグが終わってOPが流れるだろうなという場面でOPが流れなかった時は何かのバグかと思ったが、そういう仕様だったようだ。その昔、「君が望む永遠」で間にCMも挟まずにOPもEDも無しでゲームの1章にあたる部分を構成したことがあったが、同じような真似をするのはさすがに無理があったのだろう。もっと言えば、前作「AIR」でもボーカル付きの「Farewell song」をEDに使っていたが、ゲームではボーカル付きで流れるのはAIR編のEDであった。

 まぁ、重箱の角をつつくような話でなく、もっと大きな壁の話をすれば、ゲームの「CLANNAD」には「AFTER STORY」というものが存在する。渚ルートの後日談と言えば、エピローグ的なモノを想像するかもしれないが、渚ルートはむしろここからが本番と言った方が正かもしれない内容である(とある事情により途中から渚ルートと呼びたくても呼べなくなるのではなるが…)。アニメではもうこれを放送する尺が残っていない。これが中途半端に終わりそうという理由である。
 で、この「AFTER STORY」、トゥルーED(トゥルーではないEDはアニメでも度々流れた幻想世界の正体が判明するものの、余りにも救いようがなさ過ぎる)を迎えるためには、全キャラのEDを見る必要がある。EDの迎えると、「光」が手に入り、タイトル画面に光が手に入れた数だけ増えていく。アニメでもサブタイトル画面で再現されており、風子、ことみのシナリオを終える度に1つづつ増えていた。
 問題は、ここである。さすがに、「Kanon」「AIR」で全ヒロインのEDまで描きつつ、メインヒロインのルートにまとめることができた京アニでも、風子、ことみまではクリアできても、双子(実は、妹の椋はオマケでEDが用意されたようでトゥルーEDには関係ない)と智代を組み込むことができなかったようだ。まぁ、別に組み込んでもよかったのだろうけど、その場合、主人公は人間として扱われなくなることは確実である。
 ゲームなら、杏のEDを見た後で、OPからやり直せば問題ないが、アニメで最初からやり直すわけにはいかないだろう(先述の「君が望む永遠」は今やってるけど)。

 決して、京アニも「AFTER STORY」のアニメ化を諦めていたわけではないと思う。例の幻想世界もアニメに出したし、OPのタイトル前はトゥルーEDのラストシーンだし、先程も触れた光も再現している。また、さりげなく双子が話していた進路も「AFTER STORY」の伏線になっている。
 期待を込めた推測だが、特別編かOVAで一度リセットして、杏ルートと智代ルートを補完してくれるのではないだろうか。1つにまとめることは無理だったとしても、杏ルートと智代ルートなしでトゥルーEDに行くのは反則のような気がする。というよりも、落ち着いて考えれば、そういう逃げ道を用意しておかないと、アニメでトゥルーEDが再現できない。

 とにかく、これが、ゲームとアニメの越えられない壁の正体である。
 別に越えれなかった京アニを非難するわけではない。むしろ、高い原作の再現度を誇る京アニだからこそブチ当たった壁だと言える。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年3月14日 (金)

泣きました 叫んでません そして、死んでません

 「ARIA」が12巻で完結した。
 いい終わり方だったと思う、っていうか、目から水が自然と溢れてくる。
 人間とは悲しい生き物である、悪口批判なら雨霰のように言葉をつむぎ出せるのに(「テニスの王子様」の話参照)、どうして褒めようとすると言葉が出てこないのだろう?

 勝手に思う「ARIA」の魅力は日常だったと思う。3人娘が送る何気ない日常(猫妖精絡みの話のどこが日常だとかは言わない)、その中にある素敵なもの、特に大事件が起こるわけでもなく、ただ、ネオヴェネチアでの日々が過ぎていく話。しかし、11巻の最後のエピソードでアリスが一人前に昇格してから、少しづつその日常が変わっていくことになる。
 細かい話を書くだけでは脳がないので、簡単にまとめると、12巻で描かれてるのは変化していく日常とそれに折り合いを付けていくキャラクターが丁寧に描かれている。例えば、一言も台詞が無いけどアリスを見守ってるアテナとか(他の会社の寮に灯里と藍華がどうやって入れたかを考えると)。

 で、個人的に白眉だと思うのは、アリシアが灯里に昇格試験を先延ばしにしてたことを告白するシーンだと思う。
物語中、完璧超人として描かれていたアリシアも日常が壊れることを恐れていたと分かる場面だ。正しい表現とは思わないが、アリシアが初めて人間らしく見えたような気がする。極端な話、アリシアの代わりに「あらあら」「うふふ」しか言わない人形を置いても話が成立するのではないかというぐらい、アリシアは完璧すぎた。そんなアリシアが見せた弱さと、その後、灯里が自分もそれを乗り越える誓うシーン、泣くなと言う方が無理でしょう…。

 そして、最終話のラストシーンは灯里が初めてAQUAに来た時のアリシアのそれと同じである。また、新しい日常が始まることを期待させるいい終わり方だった。

 気取って言うなら、「大人になる」というのが終わるに当たってのテーマだったのだと思う。
 大人(あの世界では一人前)になることの喜びとそれと同時に生じる悲しみがバランスよく描かれている(ただ、若干、悲しみの方が比重が大きいような…)。
 詳しい事情までは知らないが、巻末のコメントによるとちょうど一年ほど前に作者はアリアという猫を亡くしたそうである。一説には、それがショックで「ARIA」を急に終わらせたなどと言われてるが、作者の中でアリアと過した日々は灯里の台詞に昇華されていると思う。
 失礼な言い方かもしれないが、悲しみを乗り越えた人だからこそ、アリシアと灯里のやり取りは描けたのではないかと思う。

 アニメでは、某軍曹の侵略に見舞われることもあったが、この感動は幅広く共有できるものだと思う。願わくば、もっと、多くの人の目に触れて欲しいものだ(特に、これからのシーズン)。

 最後に、散々書いた最後はこの言葉で締めくくるのが相応しいだろう、恥ずかしいセリフ禁止!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年3月 6日 (木)

自身の武力が大幅に上がり、さらに知力と移動速度が上昇する。

 やっぱり終わった「テニスの王子様」。
 まぁ、しかしなんだろう? 数ヶ月前からこのマンガ全体に漂っていたもうすぐ終わりですオーラは。

 最初に断っておくが、「テニスの王子様」は最初から通しで読んでるわけではない。本来なら、こんな話をするのは作品に対して失礼かもしれないが、このマンガで最終的に作者が訴えたかったメッセージを(電波で)受け取ったような気がするので、取り上げてみる。

 そもそも、終わりそうだオーラが漂い始めた理由はどこにあったか。
 それは、全国大会決勝戦、特に第3試合以降の駆け足が凄かった。普通のペースなら幸村に時間稼ぎで挑んだ遠山の話で1~2週、記憶喪失のリョーマの記憶を取り戻すためにかつてのライバルたちが協力する話で4週ぐらいかけても良かったはずだ。特に、最終回間近で、跡部辺りは最後の見せ場になったかもしれなかったのに。
 そういうのをすっ飛ばして、リョーマの試合に持ち込もうという展開の速さが尋常ではなかった。さらに、肝心のリョーマVS幸村も天衣無縫の極みという名の超サイヤ人化をした途端、手も足も出ずに敗北という最終戦とは思えない一方的な展開。てっきり、病気の再発でできた一瞬の隙を突かれて負けると思ってただけにあっけないにもほどがある。しかも、そのままエピローグに突入して終了。
 とても、9年に渡る連載の最終回とは思えない最終回だったと思う。

 ところで、作者の言いたかったメッセージの話であるが、それは「天衣無縫の極み」の中に存在する。
 早い話が、「楽しければいいじゃん」と、開き直ったヤツが何よりも強いという理論なのである。多分、生きようとする意思や志々雄様よりも強いのではないかと思う。
 ウチの弟は「この作者は絶対にテニスをやったことがない」と断言していた。「サーブを受ける時の立ち位置がネットの手前なのは絶対にありえない」などが理由だそうだ。

 ここから完全な電波であるが、作者は最初に軽い気持ちでテニスをテーマにしたのではないか。さっきのウチの弟は、テニスは他のスポーツと比べればマイナーな競技だから、知名度はあってもルールや選手まで詳しい人間はほとんどいないと言っていた。
 ところが、想像以上にマンガの人気が出てしまい、自分にテニスの知識がないことがテニスに詳しい人間に露呈。ジャンプマンガの定番と言うか、必殺技の応酬でテニスの名を借りたバトルマンガ路線に進むものの、5試合あるうちの2試合は味方を負けさせないといけない展開、次々とライバル校を登場させなければならない関係でキャラの数は膨大になり(気のせいか関東大会と全国大会の面子がほとんど同じような)これ以上はキャラが考えられない袋小路。
 そして、最終的にたどり着いたのが「楽しければいいじゃん」という天衣無縫の極み。
 そう、楽しければいいのだ。テニスじゃなくてもバトルマンガとして楽しければいいのだ。
 人間技や生物として明らかにおかしい肉体の変化があっても楽しければいいのだ。
 神の子と称され、神に最も近い男と同じようなテニスをする相手を瞬殺しても楽しければいいのだ。

 9年という月日をかけて「テニスの王子様」が最終的にたどり着いた答えはそこにあったのだ。

 ただ、このマンガを描いてる作者が楽しそうだという気が起こらないのはなんとも不思議な話である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年3月 3日 (月)

小説版「ハヤテのごとく!」P75の挿絵のごとく!

 最後の劇場版から数年の時を経て「スレイヤーズ」のアニメ4期の製作が決まったそうである。
 個人的なスレイヤーズの思い出といえば、未だに原作を読み終えていないということがある。正確には「覇軍の策動」以降を読まないまま、10年以上の時が経ってしまった。
 というのも、スレイヤーズがアニメ化された頃は高校生、さすがにバイトもしてない身で全巻揃えるには巻数が多すぎた。そこで、スレイヤーズを揃えてた友達から新刊が出るたびに借りて読んでいたのだが、高校卒業とともに貸し借りができなくなり、そこから先を読んでない。
 ただ、風の噂に本編が終了したらしいという話は聞いたのだが。

 「スレイヤーズ」は日本のアニメを語る上で、外せない作品である。
 同時期に「新世紀エヴァンゲリオン」という怪物アニメが存在したせいで陰に隠れがちだが、俗にスタチャ商法と呼ばれるアニメを確立させたのは「スレイヤーズ」の方である。
 まぁ、大雑把に言えば、主演声優に主題歌を歌わせることで相乗効果を狙うのがスタチャ商法の基本である。最近は、若い女性声優を大量投入したもののように使われてる気がしなくもないが。で、「スレイヤーズ」、特に2期のNEXTが放送された時期はエヴァンゲリオンの後で、林原めぐみの人気が不動のものとなった時期で、このスタチャ商法を確立させることに多大な貢献をしたはずである。
 また、ライトノベルを原作にすることで、少年マンガでは難しかった2クール構成の物語が比較的構成しやすかったという利点もあったはずだ。

 しかし、「エヴァンゲリオン」ほど「スレイヤーズ」が研究・分析されてるという話を余り聞いたことがない。
 たしかに、社会に与えた影響や云百億という経済効果のあったエヴァの分析をして、同じようなヒット作品をあわよくば狙おうという気は理解できなくもないが、両方に関わった大月Pが選んだのは、「スレイヤーズ」の方だったのである。現に、会社は違うが「スレイヤーズ」と同じ路線の「涼宮ハルヒの憂鬱」だってアレだけヒットしたではないか。
 もっとも、スタチャ商法もそれだけでは機能しない。某会社が10年ぐらい前にアニメに進出したとき、同じように主演声優に主題歌を歌わせて儲けようとしてたが、見事にこけてしまった。“主演声優”という部分も意外にバカにはできないのである(これだけで誰のことか分かったあなたは偉い)。
 声優の選定の話題は今度の声優アワードの発表の頃にでも取っておきましょう。

 既に何の話か理解できないが、今年はラノベ出身の桜庭一樹さんの直木賞受賞ということもあり、ラノベが一般層に注目されると予想している(まぁ、数年前に仮面ライダーカブトとセンター試験の現代文で「ボクっ娘ブームが来る」と予想して外してるけど)。
 「マンガ原作に枯渇した民放ドラマがラノベに手を出すのも時間の問題かもしれない」と1人で思ってる時期に、ラノベの完成型である「スレイヤーズ」の新作が決まったというのは意義深いことなのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月12日 (火)

思い出のマンガ

 と、よく言うが小学生時分の子供が何冊もマンガを買うことができるわけがない。まして、週刊少年誌を毎週買うようなお小遣いがあるわけもない。
 個人的な話を言わせてもらえば、コンビニが身近に存在しなかったので、週刊誌を毎週立ち読みすることも難しかった。
 つまり、子供の頃に読み込むことができるマンガというのは物凄く限られているのである。

 自分の場合、物凄く限られた中の一つは「聖闘士星矢」であった。ドラゴンボールも連載されていたが、ドラゴンボールをそろえるほどの小遣いはなかった。

 子供の頃に読んでたマンガの数が多いというのは少しありえない話なのである、余程のお金持ちだったりしない限り。
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧